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私の師、故北村重憲氏(番外編1)

 

皆様は、自分に影響を与えた「師」と呼べる方はいらっしゃいますか?

私(豊島)にとって最大の師は、日本における滞在型リゾートのパイオニア、故北村重憲氏で、亡くなられても、今の私のリトリート施設づくりに大きな影響を与え続けてくれる沈まない太陽のような存在です。

私の師、故北村重憲氏(1~完結編)

それらの事は、前回書きましたので今回は番外編で、伊豆の天城山に登った時の事を書きます。

石亭の寮に入る前は、私はカルクナーレ研究所で、北村さんや他のセラピストと同居していました。

仕事だけでなく、プライベートも一緒に過ごすと、仕事でケンカをするとプライベートが苦痛です(笑)やっぱり人と人は「距離感」が大事だなと思った事があります。

それはともかく、私は休日、北村さんはご自身では運転をされないので、私が運転手として外回りをしてカルクナーレ研究所に帰る時でした。

最後の十字路で北村さんが「まっすぐ行って、今日は帰りなくないから、笑」と、子供のような言い方で言うものだから、あ、これは他のセラピストとケンカでもしたかな?と私も察して、まっすぐ十字路を通過しました(笑)

さて、帰らないとなると、今日は一日北村さんと何して暇を潰しますか?

「豊島くんも行ってみたいところあるかい?今日は何かして時間つぶそう」北村さんも、そんな感じでした、まだ午前中です。

私はすぐにピンと来ました、伊豆に来たからには大好きな川端康成の小説「伊豆の踊子」の舞台、天城山に行ってみたいと思っていたのです。

すぐに「じゃあ、天城山に行きませんか?まだ午前中ですし、行けると思います」と言うと、北村さんは「おお、行こうか、そうしよう」と、すぐに快諾。

こうして男2人、天城山への半日旅が始まりました(笑)

伊豆の踊子ならぬ、伊豆の踊男(いずのおどりお)珍道中のスタートです。

※亡くなられた今思うのは、こうして日本の滞在型リゾートのパイオニアと一緒の時間を、本当に一緒にリトリートしながら学べた時間は、私の人生の宝物だなと感じています。

天城山を目掛けて走り出すと、どうやら「天城山」という山は無いようでした、天城山は「万二郎岳」や「万三郎岳」と言った天城連峰の総称で、いろんな山があります。

私達は、一番手前にある1299メートルの「万二郎岳」に登ることにしました。

標高1000メートルを超えていますが、かなり上まで駐車場が整備されており、実際に登るのは数百メートルです。これなら半日どころか往復数時間で私たちのような軽装の者でも登れます。

時は2008年の秋、リーマンショックの真っ最中です。

私が先頭、後ろに北村さんの順で、天城山(万二郎岳)を登り始めました。

万二郎岳

この登山で、私は仕事における、いや、人生における大事な大事な教訓を得ることになるとは、登り始めた時は思いもしませんでした。

この時、北村さんから学んだ教訓を支えに、私は2011年の東日本大震災や、2019年の令和元年房総台風、2020年からのコロナウイルスなど、その後に起こる、様々な仕事や人生の危機を乗り越えて行くことになります(番外編2に続く